マイナー病気録

思えば病院とは縁の切れなかった人生。こんな感じで向き合ってきました

慢性甲状腺炎:薬がなければ人生終わり

絶対手放せない薬とは

 ロシアが攻撃を止めそうもないウクライナ。侵攻が始まって、もう1カ月以上が経ちました。隣国のポーランドなどには避難民が押し寄せていると聞きますが、どこにも逃げられず、地下壕などで息をひそめて暮らしている方たちも多くいると聞きます。

 むしろ、ある程度の元気があればこそ国外にも脱出できるのでしょう。家族が病気で動けなくて看病しなければならないとか、ご自身が持病があって動けないとか、そういう方たちが残されているのではと心配です。

 高齢患者がベッドで動けないまま亡くなっていったとの報道を見るに及んで、とても悲しく、他人ごととは思えませんでした。毎日服用している薬が無いと困る私は、戦争になってしまえば、あっけなく人生詰んでしまうなと思い知らされました。

 そこで、今、自分の体から完全に抜けてしまうと一番困る薬って何だろう?と考えてみました。喘息の吸入を始めとする治療薬、全身の蕁麻疹を抑える抗アレルギー薬、耳性帯状疱疹の発作が出た場合の抗ウイルス薬や眩暈止めも大切だし・・・。

 でも、体にとって最も無くてはならないのは、私の場合、甲状腺疾患で飲んでいるチラーヂンS錠かしら?と思います。無かったら、人生が終わるように思います。

慢性甲状腺炎、最近は安定

 この病気ブログも、ああだこうだと持病について書いてきて、最近は喘息がらみの話が多かったのですが、甲状腺の話はまだ満足に書いてなかったかもしれません。

 ここ20年、甲状腺ホルモン不足を補うために毎朝チラーヂンS錠を服用しています。大事な薬ではありますが、症状があまりにも安定しているので、最近は甲状腺やチラーヂンにあまり意識を向けることなく生活している気がします。

 当初は適切な薬の量がなかなか見極められず、体調が安定しなくて苦労しました。でも、最近は62.5μgのチラーヂンを毎日服用すれば大丈夫。決まった薬さえ欠かさず飲んでいれば、何の心配も要りません。

 ちらりと心配だったのは、東日本大震災の後。震災によって、チラーヂンを製造している福島県いわき市(たぶん)の工場が稼働できなくなり薬が払底したそうで、「海外から薬を調達します」と通院先から伝えられた時期があったのです。

 とはいえ、この時は病院側が信頼できる薬を責任をもって調達してくれたので、患者側の私が実際にどうこうする必要もなく終わりました。

 すっかり安心しきっているようなところもありますが、これがいざ、戦争になってしまったら。薬の安定供給を求めることなど無理な相談になりそうです。となると、このチラーヂンが切れたら、私もベッドの上で動けなくなる運命ですね。

診断を付けたのは、暴言をつぶやく医者だった

 私の場合、この甲状腺の病気の始まりは「不明熱」が続いたことでした。2年半ほど39度弱の発熱が続き、原因が分からず、暑くてたまりませんし、体力が落ちてぐったりする日々でした。熱が下がらないので、勤務先にも行けなくなったのでした。

 食欲が落ち、特に夏に口にできたのは冷やしたスイカぐらいで、そればかり食べていたような気がします。同僚のお見舞いにもスイカをリクエストして、高級な「でんすけすいか」を頂戴し有難く食べました。

 「不明熱」の原因については、喘息を診てもらっていた呼吸器内科の主治医が、私を抱え込まずにせっせと他の病院に紹介状を書いて下さり、あちこちの名だたる病院で調べてもらいました。怪しいと疑われた中には何らかの感染症や脳腫瘍、甲状腺疾患が入っていたのでしたが、ある日、熱がパタッと下がったと同時に電池切れの人形のように身動きが取れなくなって、「やはり甲状腺だったか」と診断がハッキリ下ったようなところがありました。

 そういえば、この時、最初に専門病院で診てくれた医師がちょっと変人でしたね・・・。ようやく甲状腺専門の病院に行き、初めて「慢性甲状腺炎ですね」と数年悩んでいた病に診断をつけてもらえて心の底からホッとする思いだったのに、困ったことにその医師は私の太り方を見て、ニヤニヤしながら信じられないような罵詈雑言を口にし続けたのでした。

 呆気に取られ、診断してくださったことに対して感謝したかったのに、素直にそうできませんでした。どうやら、弱ったオバサンで反論してこないだろうと侮られたんだと思いますね。

 発熱が最高潮の頃は、前述したように熱さで食欲が落ち、脳腫瘍の薬を間違って飲まされていたこともあって嘔吐が止まらず成人後では最も痩せたのでしたが、熱が下がったらあれよあれよと急激に浮腫み、ろくに食べていないのに明らかに不健康に体重が増していました。

 甲状腺のスイッチが切り替わり、機能亢進から低下になったようでした。

 その専門病院を受診したのはその頃。どう考えても病気によって太ったと思われるのに、その医師は「身長がこれぐらいなのに、食べ過ぎなんだよ。こんな体重ってのがおかしいんだ」と嘲笑うように言うので、(へーそうですか!)と診察室を出るや否や「病気によって太ったと思われるから受診しているのに、それを笑う医師がいるか!」と窓口に抗議の文書を投書して、すぐに担当医師を変えてもらったのでした。

 それ以降は、とても温かい雰囲気の女医さんに担当していただくことになって、滅多にその暴言医師にはお目にかかりませんでしたが、巡り合わせが悪くてこの20年間にピンチヒッターで再度診てもらった日がありました。

 この病院にまだいたのか、とゲンナリしました。

 面倒だったので(薬だけサッサと出してもらっちゃえばいいや)と考えて医師のチェンジはお願いしませんでした。暴言医師は、以前よりは老けて元気が無くなり、ただ、よく聞くと相変わらず侮辱的な言葉をニヤニヤしながらブツブツ小声で言い続けていたので、未だに患者で鬱憤晴らしをしているのかと呆れました。

 不気味でしたが、今度は窓口に投書もしませんでした。 

 こういう患者をバカにし続けるムカつくお医者さんは、近所の脳外科クリニックにも以前通った大病院にもいましたけれど、珍しくありません。いいですね、そんな失礼な態度を商売相手に見せても仕事を続けていられるんですから。

 もちろん、闘病中にとても感謝しきれないほど良くしてくださった医療者の方々もおいでなのですが、つい思い出したのはこの暴言医師。やれやれ、脱線しました。話を戻しましょう。

「薬が無い」を想像すると震える

 「いざ、戦争になってしまったら薬の安定供給を求めることなど無理」と先ほど書きましたが、チラーヂンが手元に無くなった場合、私はどれくらいの期間、普通に動けるのでしょう・・・考えると、1~2週間程度なんでしょうか?1か月以上は難しそうな気がします。

 そう考えると、万が一の時のためにある程度のチラーヂンを手元に備蓄しておいたほうが良いんでしょうかね・・・。

 慢性甲状腺炎を発症したそもそもの理由はわかりません。ただ、31歳の時に受けた造影剤の検査でアナフィラキシーショックに陥って意識消失した経験から数年後に不明熱が出現しているので「何らかの因果関係があったのかもしれない」と担当医も言っていました。

 担当医の簡単な説明によると、慢性甲状腺炎によって体温が上昇して39度ほどの発熱が数年続いてから急激に体温が下がった私は、その発熱が続いている間に体内の甲状腺ホルモンを使い果たしてしまったとか。

 そして、ホルモンが切れて熱も下がり、文字通り、笑っちゃうぐらい「身動き」が取れなくなりました。倦怠感がハンパないのです。それまでの人生では経験したことのない倦怠感でした。

 家族の運転で車に乗せてもらって外出して、駅ビル駐車場から歩いてエレベーターやエスカレーターに乗って待ち合わせのお寿司屋さんにたどり着いた時点で、ビルの階段を全部歩いて登ってきた直後の人のようにゼーゼーハーハー肩で息をするありさま。家族が待ち合わせの相手を探しに行っている間、へたり込んで店の前のフェンスにつかまっていましたが、ふざけているわけではなくて、そうしないといられないのです。

 当時「電池切れしてるんだ」と茶化して説明しましたが、立ち上がるのもやっとで、結局お寿司屋さんには入れず帰ったと思います。

 電池切れならぬ甲状腺ホルモン切れ。それを現状はチラーヂンで補っているからこそ、こうやって生活できているのですよね。

 チラーヂン不足によって全身の基本的活動がほぼできなくなってしまうだろう状況は、一番避けたいところです。基本的に体力が奪われてしまうと、他の持病へもドミノ倒しで影響しますから。

その他の薬も、もちろん無いと困る

 もちろん他の薬も、無くていいわけはありません。無いことを想像するとホラー並みの惨状になってしまいそうなのは、蕁麻疹が出たせいでお岩さんのような顔になり、職場で同僚が大騒ぎしたこともあるから、やはりアレグラというか抗アレルギー薬でしょうか。

 飲まないとすると、全身の蕁麻疹が「待ってました」とばかりに出現してくる訳ですよね。嫌だ嫌だ。どこにも、最寄り駅までだって平穏には歩いて行けなくなります。

 耳性帯状疱疹の抗ウイルス薬や塗り薬が無いのも、きついです。回転性めまいによる嘔吐、耳の腫れ、発疹。どれも外出はおろか生活自体ができなくなってしまうので、想像すると震えます。

 それと、喘息の治療薬が無くなったら・・・発作が起きてしまったらシャレになりませんね。住んでいる町が爆撃され戦場となれば、ハウスダストの騒ぎじゃありませんから、重積発作が起きてしまえばその中で命を終えることになるんでしょう。

 ちょうど朝ドラの「カムカムエヴリバディ」が来週で最終回を迎えますね。2025年まで描かれる物語の初代ヒロインの安子は1925年生まれ、ちょうど彼女の百年をたどる話になっているようです。現代のウクライナの戦場を想像するまでもなく、もし私が100年前に生まれていたら・・・きっと50代までなんか生きられなかったんだろうなあ、それだけ現代医療に助けられている人生だと思いました。