マイナー病気録

思えば病院とは縁の切れなかった人生。こんな感じで向き合ってきました

共生社会のために、ちょっとした気遣い

 パラリンピックが終わりましたね。今夜、閉会式の途中まで見ました。

 その中で、また表示されているなと思ったのが、15%という数字。たぶん、パラリンピックの対象とされる障碍者の、各国の平均値なのか、全人口におけるパーセンテージなのか、どちらかなんだろうなと思います。

 そんなにも多く存在しているのに、100人のうち15人というほど、そこまで姿を見ない気がします。それだけ、社会から目の届かない存在にされてきたのかなと思います。

 特に、日本では。

 アメリカに留学した時に、日本よりも障碍のある人たちは身近にたくさんいるような感覚がありました。学校でも街でもどこでも見かけるなって。例えば、車いすの方たちは特別のことではなく、普通に存在していました。

 友人の家に遊びに行ったら、その家のお母さんが電動車いすを乗りこなし、明るく家事やら車の運転もこなしていましたし、友人や家族、周囲も自然に手助けをしていました。

 学生アパートにも、車いすの学生が住んでいて、これまた器用に車いすをたたんで車に載せて、ひとりで通学していました。

 それに比べて(はいけないかもしれませんが)、そういえば実家の近所に住んでいた脳性麻痺の○○ちゃんは、どうしているんだろう・・・小学校時代は遊んだけれど、その当時、見かけなくなって久しくなっていました。

 現在は昔の「座敷牢」までは行かないかもしれませんが、日本では、日常の場から障碍者の存在を隠す傾向があるんじゃないかと、その留学以来思ってきました。何となく、「いないことにされてる」というか。

 それを他人ごとではなく感じたこともありました。私も、いないことにされそうになったことがあったんですよね。

 2013か2014年の話だったと思うんですが、同窓会の計画が持ち上がっていました。

 かなり久しぶりに、私も元気になってきたから参加したいなと思ったんです。でも、喘息がうまくコントロールできない場合があり、タバコOKだと無理なので、幹事さんの中で気安く話ができる人(だと私は思っていた)に、会場は禁煙にできそうなのかをこっそり聞いてみたのでした。

 そうしたら・・・あっさり「来ないで」と言われてしまいました。

 彼は「来られないことにしておくから、来ないで」と言いました。お招きしている先生方の中に、タバコを吸う先生もいるから、というのがその理由でした。

 気安く話ができるからこそ、正直に言ってくれたのかもしれません。でも、ああ、そうなんだ・・・かなり、がっかりしました。

 ちょっと不便があるからと伝えただけで、何の工夫も配慮もなく、行かなくていい、来なくていいって簡単に言われちゃったな・・・はっきり、疎外されたと感じました。

 結局、その年の同窓会は行きませんでした。

 別の友人たちに「どうして来なかったの?」と聞かれた時、正直に幹事のひとりとのやりとりを伝えたら「ひどい!」と言ってくれる人たちもいれば、「それは、仕方ないかもね」との反応が返ってきて、重い空気になったこともありました。

 皮肉にも、同窓会では例のタバコを吸う先生が私に会いたがっていたとか、私の話をしていたよーとの話も聞きました。

 この同窓会トラブルを、今回のパラリンピックで思い出したのは、あの時私が少し感じた寂しい思いを、障碍者の方たちはもしかしたらずっとしてきたのではないか、と想像したからです。

 ちょっとした段差が無ければとか、ガイドがあればとか・・・何らかの「ちょっとした気遣い」があれば、参加できるのに・・・という場から、ことごとく遠ざけられてきたのではなかったかと、そんな風に思うんです。

 自分の経験からしても、そんなに日本社会は個人に甘くないじゃないですか? まず国というか組織が大事、二の次になっているのが個人、という印象があります。個人がガマンするのが美徳とされる社会と、「人のために国がある」アメリカの傾向とは明らかに違います。

 もちろん、そんなこと無かったよ!とおっしゃる障碍者の方たちがたくさんいてほしいですけどね・・・私の勝手な想像であればいいのですが。

 あの同窓会で、喫煙室でのみタバコOK、メイン会場では禁煙としてくれれば、私は参加できたのでした。実際、その後の同窓会ではそうなって、私もより回復して喘息が安定していたので晴れて参加でき、例の先生ともヘビースモーカーの旧友とも懐かしく話をすることができました。

 あの気安く話ができるはずと思っていた幹事の彼は、何の屈託もなく見えたのが憎らしくて、「前回は来ないでって言われたんだったよね」と皮肉を言ったら「勘弁してよー」と笑っていました。

 幹事が大変なのは、私も経験したのでわかりますけれど、私は「来ないで」とは言いたくないです。今後、また幹事をするとしても、できるだけ多くの人に来てもらいたいと考えて、それが実現できるように代替策を探そうと思います。

 彼は、個人の不便なんか面倒くさいと思い、フレームから外れる異端を切り捨てたんだと思いますね。ずっと彼の方が効率的で現実的、それが良しとされる社会だったように思いますから、彼だけを責められない気もします。

 パラリンピックを見たくらいで、偉そうなことを書いているかもしれませんが・・・他山の石として、共生社会のために、日頃「他人が抱える不便さへのちょっとした気遣い」を忘れたくないなと思います。